この船、どこかいくあてあったのかな…

『楽園/PARADISE SEA』
1998年/カラー/モノラル/ヴィスタ/上映時間:90分

・初夏、ユーロスペースにてモーニング&レイトショー

<INTRODUCTION>
『楽園』には、ゆっくりした時間が流れているだけというのだろうか。そんな、た
ゆとう時間に身をまかせたあげくに、やっと『楽園』に到達できるというのか。
いや、その時間こそが『楽園』なのだと語ろうとしているのだろう。
萩生田宏治のこの映画は、切りきざまれた現代の時間にはまリこんでしまった私た
ちに、異なった時間があったこと、そんな時間が消えたため『楽園』までも見失っ
てしまったことを伝えている。

注文もないのに、古来の手法で木造船をつくりつづける老船大工は、俗っぽくいえ
ば浮世離れしている。一本の大樹から、海に浮ぶ船をひとりの手でこつこつとつく
りだすために、大きいうねりのような時間に身をあずけている。それがものをつく
ることだったし、逆に時間を生みだすことでもあった。
竜骨が組みあがったときの孫娘の一瞬の笑顔、人力で進水させようとしてはたせな
い獅子舞たち、私は彼等の表情にこの時間を感知しようとする若者たちの姿をみた。
受け継いでいく世代、それも時間だ。だれの手も借りずに、風が船を進水させる。
人の手抜が自然の手に返されていく。私は普陀落渡海の船出を想った。それも南海
の彼方の『楽園』へと向かっていったものだった。

この映画の登場人物たち、舟大工のじいさん(谷川信義/本業は大工)、それを手伝
うシンジ(荒野真司/縁台美術作家)、じいさんの孫娘・スズエ(松尾れい子/『水
の中の八月』でデビュー)、シンジを探すフクオ(須藤福生/無国籍パーカッショ
ングループ「LOTO BOMBA」)とヒトミ(河合みわこ/『ピーター・グリナーウェイの
枕草子』)それぞれ個性的で、パラパラに生きている。なぜか彼らは、自分の気持
ちをほとんど口にしない。じいさんは誰に頼まれた訳でもない大きな木造船を造る
理由を語らず、シンジは仲間の前から消す理由を、スズエは家を離れて造船所にい
る理由を語らない。しかし、彼らの関係の素気なさと遠い距離感は、舟が造られて
いくうちに変化していく。遠く演じる距離感が、彼らの世界の広がりへと変わるの
だ。その変化の理由を言葉にするならば、それは「信じる」ということだ。

それは、信用や信頼とは少し違う。大きな舟を作る、じいさんとシンジを動かしい
ている「熱」だ。できるのかどうかわからないことをする時、損得を越えて何かを
してしまう時に「信じる」という感情は大きくうねり、人を燃やす「熱」となる。
それは、想像力の外側からやってきて、自分自身を解き放とうとする。

私たちは、夢見るカを少しずつ失っている。他人にどう見えるかを気にして、他人
を理解しなければいけない気がして、それだけで疲れ果ててしまう。スズエが、じ
いさんに優しくなれないのは、そこに、信じることの危うさを見てしまうからだ。

『楽園』は、そんな感情を、ゆるやかに掘さぶる。観客に語りかけるのではなく、
とても豊かな体感の描写で伝えてくる。だから、『楽園』には説明がない。舟を作
る姿、自転車を漕ぐ姿、シンジを探す姿を積み重ねていく。自転車で坂を上る時の
筋肉が感じる手応え。なぜか、坂を登りきることに意地になる気持ち。あるいは、
丸太一本の手触りと重さ。材木置き場の木の匂い。重い材木に、身体が振り回され
る感じ。抜けるような青空が一転して大雨になった時、雨に打たれてみたくなる気
持ち。

そんな細胞の1つ1つが感じたこと、筋肉の1本で経験したことの積み重ねが『楽
園』を形作っている。それは、信じることをやめたら、信用も信頼も枯れてしまう
ことを教えてくれる。

<STAFF>
監督・脚本:萩生田宏治
プロデューサー:仙頭武則

<CAST>
松尾れい子
荒野真司
谷川信義