この度、TV界のレジェンドにして“視聴率100%男”と言われた誰もが知る萩本欽一の最初で最後のドキュメンタリー映画「We Love Television?」の劇場公開が11月3日(欽・祝)に決定し、ポスタービジュアルが解禁となります。
昨今のバラエティ番組の視聴率が平均10%程度のなか、萩本欽一全盛期に30%越えの番組を連発。自身の冠番組やレギュラー番組の1週間の視聴率の合計が100%を超えることから、“視聴率100%男”と呼ばれ、テレビをエンターテイメントの王様へと押し上げた立役者、萩本欽一。一般視聴者とのからみ、司会アシスタントの誕生、ピンマイクの導入、等々…斬新なアイディアを次々と形にし、現在のバラエティ番組の基盤を作りあげたパイオニア。

本作は、アナログ放送から地上デジタル放送への切り替え期である2011年より萩本欽一の新番組制作に密着したドキュメンタリーとなります。監督は新番組企画の発起人であり、「電波少年」シリーズなど数々の人気番組を手がけ、バラエティ界を席捲したあの“Tプロデューサー”こと土屋敏男。実力派女優 田中美佐子と人気お笑い芸人 河本準一(次長課長)を共演に迎え、構成担当にマルチに活躍する放送作家 高須光聖、番組セット担当に今最も注目を集めるクリエイティブ集団 猪子寿之率いるチームラボが参戦。新発想の布陣で挑む番組制作の模様を記録した。膨大な映像素材に収められたのは、萩本欽一のエンターテイメントへのあくなき執念と狂気を秘めた番組制作の奥義、そしてテレビマンたちの熱意だった―。

萩本欽一は、土屋氏が映画を作っていることを知らされていなかった。土屋敏男は、ただ記録として番組制作の過程を撮り続けながら、実は<萩本欽一、初のドキュメンタリー映画>の制作に着手していた。土屋氏と萩本欽一の出会いは土屋氏が30歳のころにさかのぼる。土屋氏が30歳の時、萩本欽一を師匠と仰ぎ、視聴率30%超えの番組に関わってきた萩本欽一の背中を見て、土屋氏の頭に「当時の現場と今の現場は何が違うのか?」「30%を超える番組の裏側はどんな様子だったのだろうか?」といった思いがよぎっていたことを思い出す。土屋にとって<追いつけない師匠>萩本欽一の素顔を撮り続けることで、何かが見えるかもしれないと思う。そして、撮り終えた膨大な映像を何度も繰り返し見ていく過程で、萩本欽一が生涯をかけて発し続けた貴重なメッセージが見えてきた。

欽ちゃんの愛称で親しまれ、視聴者にとってはお茶の間の人気者“欽ちゃん”。そんな欽ちゃんの誰も見たことのない姿を映し出し、これまで世に出すことのなかった番組制作の裏側まで見せた本作は、萩本欽一にとって「人生で納得のいかない唯一の仕事」となった。

<萩本欽一コメント>
まさか映画を作っているなんて、知らなかった。この映画、人生で納得のいかない唯一の仕事かな。でももっと面白くしたいなら、僕がコロッと逝った時に公開すればいいんだけどね(笑)

<萩本欽一プロフィール>
1941年5月7日生まれ、東京都台東区出身。
当時大型だったカメラを“一般の人にも使ってもらいたい”と小型にし、コンパクトカメラの先駆けである「ダン35」を製造したカメラ製造家を父にもつ。中学卒業後、浅草演芸劇場のデンスケ(故・大宮敏光)の門を叩いたが、「役者は当節、高校ぐらい出なくっちゃ。」と言われ、高校へ通う。高校卒業後、浅草東洋劇場の軽演劇の一座に加わり、1966年、坂上二郎と「コント55号」を結成。その後数々の番組にテレビ番組に出演し、「スター誕生!」(NTV/1971)、「欽ちゃんのどこまでやるの!?」(EX/1976)、「欽ちゃんのドンとやってみよう!」(CX/1981)、「欽ちゃんの週刊欽曜日」(TBS/1982)、「ぴったし カン・カン」(TBS/1975)、等視聴率30%級の超人気番組を数々生み出した。自身の冠番組やレギュラー番組の1週間の視聴率の合計が100を超えることから“視聴率100%男”とよばれた。

<土屋敏男コメント>
この映画で、僕の積年の思いが完結しました。このドキュメンタリーをテレビではなく映画にしたいと思ったのは、テレビは途中で観ることをやめることができる。でも映画は映画館に入ったら逃げられない。だから、逃げられない環境で観るものを作ってみたかったんです。僕にとって追いつきたいけど追いつけない師匠であり、常に動き続けている運動体、萩本欽一の最初で最後の貴重な映像になったと思います。

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