5月26日より新宿K’s cinemaにて公開されるドキュメンタリー映画「孤独なツバメたち〜デカセギの子どもに生まれて〜」。国籍が違うために教育も受けられず労働環境も苛酷、中には闇の世界に足を踏み入れざるを得ない現状…そんな中にあっても強く前を向いて生きる姿を捉えたドキュメンタリーです。映画の公開を前に、映画に出演する日系ブラジル人青年、そして同じバックグラウンドを持つゲストを招き、今のリアルな在日外国人たちの現状とこれから日本社会がグローバル化していく中で彼らと共生していくために必要なことを考えるトークセッションが、東京・西荻窪のブラジルスタイルコミュティ・スペース&バール「Aparecida」で行われました。ゲストは、鈴木ユリ(映画出演者)、石川ホベルト(HIPHOPミュージシャンTensais MC)、アマンダ(タレント、モデル)。

鈴木ユリ:10歳のときに親と一緒に日本に来て、広島で小学〜中学校時代を過ごし、それから静岡のほうに行って、高校2年で中退しました。それから日本の暴走族に入って、自らギャングを作ったりして、少年院にも入りました。2009年10月にブラジルに帰って、結婚して家族ができました。2人の娘にいい生活をさせたくて、出稼ぎにまた日本に戻ってきました。ブラジルでは生活もままならないし、悪い方にいくと殺すか殺されるかしかなかったので、もう悪いことはしたくないと思っています。

アマンダ:4歳のときに愛知県の豊橋にいって、それからずっと日本にいます。2年前にタレントの仕事をするために上京してきました。
ホベルト:17歳で日本に出稼ぎの父に呼ばれて群馬県太田市に来ました。日本語もわからない中、学校にも入らず、会社に入って仕事していました。神奈川県に引越したんですが、神奈川にブラジル人もいないから、妹たちは学校に入って少しずつ日本語を覚えるようになったんですね。日本には日系ブラジル人の社会と、日本社会で生活しているブラジル人の2つがある。

————映画と自分の経験が重なるところはありましたか?
アマンダ:この映画はブラジル人たちのリアルを映していると思います。私の周りにもユリくんみたいな生き方をした人もいっぱいいました。私は父が日本人で母がブラジル人なんですけど、最初母がブラジルのおばさんのところに私を預けて日本に下見にきて、それから母と一緒にデカセギの娘として日本に来ました。懐かしいなと思うのと同時に、ブラジルに帰った子たちは今こういう生き方をしたんだろうな、とか。私は日本に残ったけど、あの子はどういう風に今生きているんだろうというのが、この映画を通してちらっと覗けてよかったと思う。子どもの頃、豊橋の団地に住んでいて、私が住んでいた団地にはブラジル人はいなくていじめられたこともありました。そういうことから強くなるために、ギャングを作っている子もいました。

ホベルト:一般の日本人は無関心なことが多いと感じます。来日したときはポルトガル語しか話せなくて、会社の中では悪魔扱いされて日本人と触れ合う機会がなかった。28才ぐらいにやっと日本語を覚えて、元暴走族の日系ブラジル人の友達とHIP HOPを始めた。周りに「やんちゃ」してる、希望を持っていないブラジル人たちが多くいてメンバーになった。でもメジャーからデビューが決まってレコーディング予定の日に、メンバーが南米系のギャングに絡まれてマイナスドライバーで刺して殺人未遂で捕まったこともありました。

————日本とブラジル、どちらをホームだと思うか、そしてどうしたら共生できるのか?
ユリ:俺のホームはブラジルで、それを誇りに思っています。どんな環境にも慣れるもので、その中にいて幸せになる方法はあると思います。日本人は差別しないで交流して欲しいと思います。市や国の人たちに、日本人の人たちともっと交流できる環境を作って誘ってほしいと思います。自分が悪い見本だったことはわかっていますし、それで差別されることについては反省しています。

ホベルト:不良のドアには差別がない。だから入りやすい。でもブラジルの言葉で”ゼロエスケーダ”というゼロから始まるという言葉がある。ブラジルにいるなら日本の良い所を、日本にいるならブラジルの良い所を伝えたい。

アマンダ:ハーフだからどちらも居場所ではないし、どっちでもいける。日本人には差別され、ブラジル人にも裏切られて悩んだ時に、モデルになるチャンスがあって東京に出てきた。つらいことがあった分だけ明るくなれる。私はモデルとして活躍することでブラジルの良さを伝えたい。

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執筆者

Yasuhiro Togawa