「女囚701号 さそり」「プライド」「ロストクライム・閃光」などの問題作を発表し続ける伊藤俊也監督が、前衛舞踊家で近年、映画、ドラマなどで活躍の場を広げる田中泯を主演にした映画「始まりも終わりもない(仮)」の撮影が6月18日から始まった。

はじめに言葉ありきだ。確かに、人間らしい営みはすべてそこから出発した。だが、二十一世紀も最初の十年が過ぎ去った今、文化・芸術のある種の爛熟ぶりと反比例して蔓延している人々の飢渇感の拠って来たるところは何か。余りに言葉が、或いは言葉だけが弄ばれ消費されていることもその一因ではないだろうか。

 そして、大震災。人々は絶句するしかなかった。その先に新しい言葉は見つかるのか。容易ではあるまい。

はじめに沈黙ありき、と置き換えてみてはどうだろう。たしかに神の世界はそうに違いなかった。人間の世界においても言葉が降りてくるまではそうだった。沈黙を辛うじて裂くものはといえば、それは呻きであり、叫びにすぎなかった。はじめに身体ありき、だった。そして、はじめに行為ありき、だった。神との交感は、はじめに踊りありき、を人間にもたらした。あらゆる芸能の始まりがここにある。

 田中泯と伊藤俊也は、伊藤の監督作品「犬神の悪霊」で田中に振付を託して以来三十余年、事ある毎に交流を持ち続け、茫洋として定まらぬながら、互いの仕事が結ばれる地点を探してきた。そして、今、ここに劇映画「始まりも終わりもない(仮)」を作ることに意見の一致を見た。

 本作は劇映画でありながら、全編殆ど科白に依らず、「舞」で綴られる。人間の声として発されるものは、呻きや叫び、あるいは掛け声、囃し、の類いに絞り、物語の運びに音楽と効果音を使うのみである。そして、言葉を排することで、映画の原点である世界共通語をこそ目指す。誰も踏み込んだことのない前衛的な試みではあるが、存在の根源を見据えた「舞」による人間の提示によって、見る人々に圧倒的な衝撃を与えたい。

そんな、伊藤俊也監督をバックアップするスタッフ陣は「太陽を盗んだ男」「青春の殺人者」などの数々の名作を撮影した鈴木達夫、「三丁目の夕日」「海猿」シリーズの水野研一が照明を担当。

本作は6月18日にクランクインして7月末まで都内と山梨県で撮影。完成後は海外の映画祭に出品後、来年公開の予定。

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執筆者

Yasuhiro TogawaYasuhiro Togawa