<ラトビアロケ レポート>
わずか3分間の映像で、カンヌ国際映画祭において1分間を越えるスタンディングオベーションを受けた後、そのままラトビアに移動した、「マイウェイ」チーム。第二次大戦当時のノルマンディのビーチにそっくりな海辺には、大規模なドイツ軍の塹壕が築かれた。カメラマンは防火服に身を包み、常に救急車が待機するという危険と隣り合わせの状況下で、撮影が行われた。白夜のため、22時を過ぎても日中のシーンの撮影が行われる日々が続いた。激戦シーンを経て、6月12日、9カ月に及んだ長期間の撮影が終了しクランクアップとなった。オダギリジョ—のキャリアでは最も長期間の撮影となった。

【危険なシーンの撮影が続いたラトビアロケ】
■エキストラ:全部で約2500人(常住のエキストラを含めると3000人ほど)
■韓国クルー約90人、現地クルー95人 ■撮影:21回/予算3億円(ラトビア撮影時のみ)
■連合軍の攻撃にさらされる、ドイツ軍陣地内の撮影では爆発で役者の姿が見えなくなるシーンの撮影が当たり前の様に繰り返された。そのため緊急時に備え、常に救急車が現場に待機をしていた
■強力な爆破を間近で撮影するため、カメラマンは強固な防火服に身を包み撮影に挑んでいた
■セッティングに4時間以上を掛けた場面のアクションシーン撮影で、一発OKを求められたオダギリジョ—は入念なリハーサルを繰り返し、見事に一発OKを出した
■ラトビアは白夜だったため、毎日のように夜の10時になっても日中のシーンの撮影が続けられた

【過酷な撮影の中、国際色豊かな現場に一体感が生まれた】
■オダギリジョーは、休日に撮影監督を初めとするスタッフや現地エキストラとサッカーをする程に親密な関係を築いた
■エキストラには、ドイツ人やアルメニア人、アフガニスタン人、イラン人もいたり、ケータリングはリトアニア人。空撮を担当する、ヘリの操縦士はノルウェー人。ヘリに設置されたカメラのオペレーターはフィンランド人と多国籍な現場だった
■劇中で登場する戦車は、「プライベート・ライアン」にも参加した、イギリスの会社が製作したもの

【9ヶ月に及んだ撮影期間】
■クランクイン/2010年10月 ■クランクアップ/2011年6月 ■韓国での撮影が8カ月、ラトビアでの撮影は1カ月   

【韓国本国に先駆けて、日本で“世界初解禁”される映像や画像の数々】
■韓国映画としては初めて本国に先駆け、日本で特報が7月30日(土)より全国の劇場でスタートする
■オダギリジョ—に「毎日、死にそうだった」と言わしめた、現場の模様も、日本で“世界初解禁”となる
■編集作業中にも関わらず、カン・ジェギュ監督が7月上旬に極秘来日。日本の関係者に自身の思いを伝えた。

【一枚の写真から生まれた、映画「マイウェイ」】
 この作品は、アメリカの公文書館で発見された一枚の写真に写った兵士の物語から始まった。 
1944年 第2次世界大戦 ノルマンディー上陸作戦で、ドイツ軍捕虜の中にひとりの東洋人が発見された。 誰一人として彼の話す言葉がわからなかったため、アメリカまで連行され連合軍の尋問を受けた彼が語り始めたのは、朝鮮からソ連、ドイツ、三つの国境を越えてノルマンディまで5年間、12000kmに及ぶ、信じられない物語だった。

【なぜこの兵士は生き抜く事が出来たのか】
 この兵士の物語に出会った、カン・ジェギュ監督は、「この過酷な状況の中、この男が生き抜く事を諦めなかったのはなぜか?何を希望に生き抜いたのか」を考えた。どんなに過酷な状況であっても、【人が生き抜く事を決して諦めない希望】その希望を突き詰めた時、【国を信じた日本人と、夢を信じた朝鮮人の対立と和解の物語】が生れた。

関連作品

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執筆者

Yasuhiro Togawa